「ELSI」とは、「ethical, legal and social implications」の略称で、「エルシー」と読みます。日本語では「倫理的・法的・社会的な課題」と訳されることが多いです。ここでは、ELSI研究がどのようなものであるかを、簡単に解説していきます。
ご存知の通り、私たちの社会では日々新しい研究や技術が生み出されています。それによって私たちの生活はより快適になったり便利になったりしていきます。しかし、場合によってはそれらが社会に思わぬ影響を及ぼすことがあるのも事実です。そうした影響を予見し、どのように対処するべきかを考えることが、ELSI研究の領域です。
ELSIという用語は、1990年にアメリカで始まった「ヒトゲノム計画」のなかで登場しました。ヒトゲノム計画とは、人間の遺伝情報すべて(ヒトゲノム)を解読しようとする研究計画です。ヒトゲノム研究がもたらしうる影響は、医師や患者に留まらず、すべての人に関わるものであり、社会全体にまで及んでいきます。そのためELSIの研究は、一般市民・政策立案者・企業などを含めた多様な観点から行われる必要があり、医科学研究者だけではなく哲学者や法学者、社会学者、倫理学者など幅広い学問領域からの参加や、また領域を飛び越えて検討することが求められます。ELSI研究はこのように学際的・領域横断的な性格を帯びています。したがってELSIの対象はヒトゲノム研究だけではなく、今日の様々な最先端の研究・技術に当てはまるものです。様々な人が被る影響を、様々な観点から考えていく。ここにELSI研究の特徴があるといえるでしょう。
研究が進み、技術が進歩してゆくためには社会からの信頼が不可欠です。そうした信頼を得られるよう寄与することが、ELSI研究の使命の一つです。ただしそれは、学術の世界のスポークスマンとなって社会を説得することでもなければ、あるいは反対に、「あれもこれもやっちゃダメ!」と研究者を萎縮させることでもありません。むしろ、研究者と社会の間に入り、両者をつなぐことで、これからの研究と技術のあり方を一緒に考えていくことが、ELSIの目指すあり方に他なりません。
ELSIにおいて実務的にもっとも重要な課題の一つは「インフォームド・コンセント」です。これは、医師が患者を治療したり、また治療の過程で採取された血液などを研究に利用したりする場合に、事前に患者に十分な説明をして同意を得なければならない、患者の側から見ると医師の説明をきちんと理解した上で自由意志に基づいて同意するか同意しないかを決めることができる、という原則を指しています。インフォームド・コンセントは、医師が患者の権利を侵害することがないよう設けられた倫理的な規範であり、国際的に守られているルールです。
しかし、今日の急速な研究・技術の進歩によって、インフォームド・コンセントを実施する際の様々な新しい困難が浮かび上がってきました。一方では、実験に参加する患者の数が膨大に増加し、また他方では、研究・技術の内容が高度に専門化したことで、説明を受けても素人には難しすぎて分からない、という状況も生じています。ELSIは、こうした事態に対応するために求められているのです。
そのためELSI研究には、新しい研究・技術が社会にもたらす影響を予見したり、橋渡し役となって多様な人々を繋いだり、さらに解決策を積極的に提言したりするなど、多様な役割が期待されています。そしてこれらに共通するのは、様々な人々と協働しながら研究と技術のあり方を考えていくという、社会に開かれた態度だといえるでしょう。
ELSI研究の重要な役割の一つは、新しい研究・技術が社会に及ぼす影響を予見することです。では、その予見とは具体的にどのようなものなのでしょうか。ヒトゲノム研究を具体例に考えてみましょう。
近年のヒトゲノム研究は多くの人々から試料(血液など)を提供してもらうことを必要としています。しかし、そうした試料には提供した人の身体の情報が書き込まれています。仮に、試料の提供者が遺伝性疾患の人であったとしましょう。その場合、万が一にも情報が漏洩してしまうと、その人の結婚や保険加入、就職などに影響を与え、人生を大きく左右してしまう可能性があります。また、遺伝性疾患には、親から子へと遺伝する可能性のある疾患と、親から遺伝したわけではなく突然変異で遺伝子に要因を抱える疾患があります。親から子へと遺伝する可能性のある疾患の場合は、情報の漏洩があれば、試料の提供者本人だけではなく、血縁のある人にも上に挙げたような様々な問題が起こるかもしれません。
重要なのは、この問題が医師と患者といった二者間ではなく、不特定多数の人々が生活する社会全体の問題として生じる、ということです。こうした問題が現実化する前に、その可能性を指摘することが、ELSI研究の課題です。この予見は様々な分野の研究者によって多様な観点から行われる必要があります。
ELSI研究は、一部の専門家に特権的な発言力を委ねるのではなく、様々な分野の人々の協働を促進し、議論の場をつくりだしていくという特徴をもっています。そのため、異分野の人々をつなぐという活動も、ELSI研究の重要な役割です。
新しい研究・技術は、様々な立場の人々に影響を与えます。たとえば、医師・医療従事者として、実際の患者さんに接する人。病気や障がいとともに生きている人。医学や生命科学に関して、最先端の学術的な研究をしている人。倫理学や法学、社会学などを通じて、人文科学から議論をする人。そして、私たちの社会を支えているたくさんの市民の方々。
そうした人々が相互に意見交流し、お互いに学びあい、気づきを得ていくことで、新しい研究・技術をめぐる議論が形成され、私たちが納得できる社会への応用が実現されていきます。その手助けとして、市民に開かれたシンポジウムを催すこと、またICT(情報通信技術)による新しいコミュニケーションの手段を開発・活用することも、ELSI研究の実践の一つです。
ELSI研究が担うもう一つの役割は、予見した問題に対してどのような取組みが必要であるかを検討し、解決策を提案することです。それによって、上述のような様々なELSI研究の成果を、研究コミュニティにおけるガバナンス(研究者たち自身がより倫理的でよりよい研究ができるように自律的に体制を整えるということ)や、政府による政策立案に反映させていくことを目指します。
ただし、解決策といっても、非現実的なものであっては意味がありません。提案をする際には実現可能なアイデアを練り上げていくプロセスが必要です。ここでも多様な立場の人々による議論が不可欠であることに変わりはありません。
ELSI研究を進めていく際の重要な道しるべになるのは、国際社会や日本国内で提起されてきた様々な法令や指針です。これらの文章は、実際に起きてしまった悲惨な事件・事故を反省したり、あるいはこれから起きるかも知れない問題を予見したりすることで、長い議論の蓄積のなかで形成されてきました。法令・指針リンクでは、そうした法令・指針のうち重要なものをピックアップしてご紹介していきます。各項目に原文を掲載しているウェブページへのリンクを示しますので、あわせてご覧下さい。
(執筆:戸谷洋志)