現在、日本人は、一生のうちに、2人に1人は何らかのがんにかかるといわれています。がんは自分や家族の誰かがかかるかもしれない身近な病気、といえるかもしれません。その原因、予防法、診断・治療法について、現在も様々な研究が行われており、がんの種類によっては、早期発見・治療が可能な病気になりつつあります。一方で、新たな診断・治療法が利用可能になることにより、倫理的・法的・社会的課題(ELSI)が生まれることもあります。
そこで今回は、2019年に保険収載され、一部の病院で受けることができる「がんゲノム医療」を例に挙げ、どのようなELSIが考えられるのか、そしてそれについてみんなで考えていくことの意義について考えてみたいと思います。
一般的ながんの治療は、がんの種類ごとに標準治療とよばれる、たくさんの研究に基づき専門家の間で決められた治療法が選ばれることがほとんどです。また、抗がん剤はがん細胞に効果を発揮するものですが、正常な細胞にも影響を与えることで、下痢や白血球の減少などの副作用もあります。近年、分子標的薬剤とよばれる、がん細胞にある特定の遺伝子異常の目印を認識し、作用する薬剤が多く開発されてきています。がん細胞に特定の分子標的薬剤が効果を示す遺伝子異常があるかを調べる検査も行われています。副作用の可能性が高い薬剤を避けたり、より効果のある薬剤を選択するといった、がんの種類だけではなく、その患者さんのがんの特徴に合った薬剤が選択できる可能性が徐々に広がってきています。
がんゲノム医療とは、主にがんの組織を用いて、多数の遺伝子を同時に調べ(がん遺伝子パネル検査)、遺伝子変異を明らかにすることにより、一人一人の体質や病状に合わせて治療などを行う医療です。現在は、その一部が保険診療として、標準治療がないまたは終了したなどの条件を満たす場合に行われています。
がん遺伝子パネル検査では、「次世代シークエンサー」と呼ばれる、高速に大量のゲノム情報を読み取る解析装置が用いられます。そこから見つかった遺伝子変異について、複数の専門家で構成される委員会(エキスパートパネル)で、その遺伝子変異に効果が期待できる薬があるかなどを検討します。
がんゲノム医療は、世界的にもまだ発展途上の診断・治療法です。数十万円かかる高額な検査ですが(保険で行われる場合には、患者さんはそのうちの一部を負担することになります)、検査を受けたら必ず治療法が見つかる、わけではありません。治療選択に役立つ可能性がある遺伝子変異が見つからない可能性もありますし、使用できる薬が見つからないこともあります。がん遺伝子パネル検査を受けて、臨床試験を含めた薬の投与に結びつく人は今のところ全体の10%程度といわれています。
また、がんに関する多くの遺伝子を調べる中で、薬の選択に関わる遺伝子変異だけではなく、がんになりやすい体質に関わる遺伝子変異が見つかることがあります。これは二次的所見とよばれることもあります。体質は遺伝し、血のつながっている家族も同じ体質を共有している可能性もあり、これらの結果を知ることで、まだがんにかかっていない部位やがんにかかっていない人の予防や早期発見に役立つ場合もあります。一方で、こうした結果は知りたくないと考える方もいるかもしれません。そのため、がんに関する一般的な検査とは異なり、これらの結果を知りたいかどうかについては、ご家族への影響なども含め、事前によく考えておく必要があります。
たくさんの方のゲノムの解析結果などの情報を収集し、分析することで、これからゲノムに関わる医療を受ける方々の役に立つ場合があります。日本では「がんゲノム情報管理センター」(C-CAT)がデータ登録に同意した患者さんの情報を集め、データベースを構築するとともに、遺伝子変異の情報や、それに関わる治験・臨床試験の情報を記載したレポートを各医療機関に返却しています。またここに登録されたデータの一部は、研究機関や企業などの研究のために、提供されることもあります。データが活用されることにより新たな薬が生まれるなどのメリットもありますが、ゲノム情報を含めた、たくさんの個人情報が扱われるため、厳重な管理も必要となります。
これらの問題は専門家だけではなく、さまざまな立場の人たちによって議論されることが大切です。各診療科の医師、看護師、遺伝カウンセラー、研究者など関連する医療の専門家だけでもたくさんいますし、政治家、官僚、法律家、倫理の専門家などの知識や意見も必要となります。さらにがん患者さん、がんになりやすい体質を持っている方、これからがんにかかるかもしれない方々の意見も重要です。
実際に、がん遺伝子パネル検査を医療に導入する前には、二次的所見に関してどの遺伝子の変化が見つかった場合に伝えることを考えるべきか、集まった検査結果の情報の利活用のあり方など、様々な課題に関して、様々な専門家を中心とする議論が行われた他、検査の説明同意文書の作成にあたっては、患者さんや市民の方に意見を聞く、といったことも行われました。
皆さんは、どんな意見や考えをお持ちでしょうか。
(執筆:相澤弥生)