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一緒に考えてみよう!:ELSIとゲノム編集

ゲノム編集と社会――ELSI(倫理的・法的・社会的課題)について考える

1. ELSIとはなにか?

 新しい科学技術が社会に導入されると、生活の質の向上、医療の発展といったように、私たちはさまざまな恩恵を受けることができます。しかしながら、それが新しい画期的なものであればあるほど、私たちを取り巻く環境の変化は大きく、これまでの考え方や規則では対応できない状況が生まれてきます。近年の時代の変化とともに、ライフサイエンスの分野では、まさにそうした問題に取り組むべく、「倫理的・法的・社会的課題」と訳されるELSI(Ethical, Legal, Social Issues)という分野の重要性が高まっているのです。
 そもそも、ELSIに着目されるきっかけとなったのは、1990年の「ヒトゲノム計画」でした。このプロジェクトは、ヒト細胞にあるDNAの全塩基配列、つまり、人間の遺伝情報の全体を解読することで、医学をはじめ人類の発展への寄与を志したものです。しかしその一方で、個々人の遺伝情報というデリケートなデータを扱うがゆえに、差別を生む可能性や個人情報の保護など、科学の領域を超えた問題が生じてきました。そこで、医療関係者や患者、自然科学の専門家だけでなく、社会学や倫理学、法学、哲学をはじめとする学者、政府や企業、市民が一体となって議論に参加できる場が形成されていったのです。

2. ゲノム編集とは?

 ゲノム編集とはいったいどういう技術なのでしょうか?まず、「ゲノム」とはなんなのかを簡単に確認しておきましょう。私たちの体の中にあるたくさんの細胞のそれぞれに、DNA(デオキシリボ核酸)とよばれる物質があります。ここで重要な役割を果たしているのが、「塩基」と呼ばれるA(アデニン)G(グアニン)C(シトシン)T(チミン)という部分で、この4つの「文字列」、つまり並び方で、遺伝情報が決定されます。「遺伝子」とは、本体となるDNAという物質の中で、生命体の設計図になる情報を持っている部分を指す言葉です。ゲノム(genome)とは、遺伝子(gene)と総体(ome)が組み合わされた単語で、「遺伝子」ではない部分も含めたA・G・C・Tの端から端までのすべての情報、つまり、DNAという物質の中にある遺伝情報の総体を意味しています。
 さて、そうしたゲノムに手を入れる、つまり改変するのが「ゲノム編集」という技術です。よく似たものとして普段耳にするのは、「遺伝子組み換え」という言葉でしょう。この二つには、少し違いがあります。DNAは切断されると修復機能がはたらくのですが、何度も同じところが切断されると、修復にエラーが生じ、一部分が抜け落ちたままの状態になります。「ゲノム編集」はそれを意図的に行うものなのです。ちなみに、DNAの修復エラー自体は、自然界でもいわゆる「突然変異」として発生する現象です。そのため、「ゲノム編集」による変異は、自然界の「突然変異」と同じレベルである、ということになります。一方、「遺伝子組み換え」だとそうはいきません。それは、対象となる生命体がもともと持っていなかった遺伝子を、他の生物種から、すなわち「外」から組み込む作業にほかならないからです。ただし、「ゲノム編集」は、切断した部分に他生物種の遺伝子を組み込むこともできるので、自然界の突然変異と同レベルの改変にくわえ、「遺伝子組み換え」のような技術も組み合わせられる、という特徴を兼ね備えています。
 現在もっとも広く用いられているのはCRISPR-Cas9という技術で、非常に高い精度で編集を行うことができます。しかしながら、遺伝子改変による意図せぬ結果である「オフターゲット」と呼ばれる副作用があったりと、その使用の是非をめぐってはさまざまな議論が存在します。ゲノム編集の対象は、植物などヒト以外の場合もありますが、とりわけヒトに対するゲノム編集は、ヒトゲノム計画以来進展してきたELSIの問題と強く結びつくことになります。

3. ヒトゲノム編集に関わる基礎研究の重要性

 ヒトゲノム編集の対象は、体細胞(生殖細胞系列以外)と生殖細胞系列(受精胚、卵子、精子など)に分類されます。そして、そのそれぞれに対して、科学的知見を得るための基礎的研究と、医療における臨床応用という2種類の方向性があります。
 基礎的研究の場合、体細胞に関しては実施が広く認められていますが、生殖細胞系列の取り扱いは、国によってことなります。イギリスやアメリカ、中国が、主に国による規制の下で認めている一方、フランスやドイツでは法律で禁止されています。日本でも、近年政府による検討会が繰り返し行われています。現時点では、可否をめぐる議論が引き続き必要な領域はあるものの、個別計画の審査を前提として認める方針が打ち出されています。
 生殖細胞の場合により慎重な議論が要求されるのは、ヒト受精胚というのが、ヒトとして誕生する可能性のある「生命の萌芽」であるからです。しかし、「人の尊厳」をめぐる倫理性が大きな課題である一方で、ヒト受精胚を用いた基礎研究には非常に大切な役割があります。ヒトの身体が形成されるはじめの段階で、遺伝子がどのように働いているかを観察することで、病態の原因究明や、遺伝性疾患の治療法開発につながる知見が得られる可能性があるからです。そうした基礎的な科学研究が着実に営まれているからこそ、医学の発展や、臨床応用への道が開けてくるのです。

4. 臨床応用の課題

 病気の治療や予防が飛躍的に進歩するのではないか。「ゲノム編集」のヒトへの臨床応用と聞くと、そんな期待を抱くかもしれません。ただしその反面で、生命や社会に及ぼす影響も大きく、基礎的研究以上に、さまざまな視点を考慮に入れなければならない問題でもあります。
 まず、体細胞への臨床応用とは、患者本人の体細胞に「ゲノム編集」技術を用いて、遺伝性疾患やがん、あるいは感染症などを治療していくというものです。この場合、倫理的問題となるのは、身体の「強化」を目的とした「エンハンスメント」との線引きです。
 生殖細胞系列への臨床応用では、まだ生まれていないけれど「生命の萌芽」ともいえるヒト受精胚に対して「ゲノム編集」を行うことになります。そうなると、母胎への影響はもちろんのこと、世代を超えて遺伝子改変の影響が現れることになります。将来にわたる長期的な安全性への懸念があるほか、対象となるヒト受精胚には治療の可否を決めることができないため、場合によっては、現代の社会の基準で将来世代の多様な在り方を限定してしまう危険性と隣り合わせになります。ひいては、優生思想へと結びついていくこともありえるのです。
 とくに臨床応用の是非をめぐっては、近年、国際的な協力の下で検討が進められており、2019年にはWHOに委員会が設置されました。日本においても、生殖補助医療がめざましい発展を見せているなかで、「ゲノム編集」のヒト受精胚への医療応用に関して、学会による自主規制だけでは不十分だとする声が上がりました。そうした事態に対応すべく、2019年に厚生労働省に専門委員会が設置され、2020年1月には、ヒト受精胚への「ゲノム編集」の臨床応用に関わる法律の制定が必要である、という旨の報告書が発表されています。
 このように慎重な取り組みが必要であるものの、「ゲノム編集」の臨床応用によってもたらされる恩恵はとても大きなものです。適切な使用をめぐり、科学者のコミュニティーを超えて、社会全体で取り組んでいくことが求められています。

5. 社会とのコミュニケーション

 現在日本では、「ゲノム編集」技術に対する理解を社会の中で広げていくために、内閣府や大学、科学者、あるいは日本科学未来館のような機関が連携して、市民公開型のイベントが開催されています。社会の中で議論を熟成させるための第一歩であるといえるでしょう。
 こうした活動は一朝一夕で成果を上げることができるものではなく、さまざまな観点を考慮に入れながら、着実に積み重ねていかねばなりません。よく挙げられる課題の一つに、一般の市民が新しい科学技術について批判的であるのは専門的知識が不足しているからだとする「欠如モデル」というものがあります。これは、専門家から一般市民にむけての一方通行的な伝達により問題が解決するという前提に立っており、事態をよくとらえることができていません。実際のアンケート報告を見てみると、知識を深めたからこそいろんな視点から考えることができるようになり、「ゲノム編集」の利用について簡単に決断できなくなった、という回答が多数よせられています。もちろん、市民が科学的なリテラシーを獲得するにあたって、専門家の果たしている役割を軽視してはなりません。重要なのは、それをもとに、双方向的なコミュニ―ケーションを築いていくことでしょう。
 また、そもそもイベントに参加するのは科学への関心が高い市民だけではないか、という疑問もよく取り上げられます。これについては、例えば、高等学校などへのイベント告知や、高校生を対象としたイベントを行い、「ゲノム編集」をめぐる議論に早い段階からきちんと触れ合える場を提案するなど、各方面から模索が続けられています。
 いずれにしても、「ゲノム編集」についての理解を深め、その利用に関して、社会全体で議論を熟成させていくことがなによりも大切です。ヒトゲノム編集だけでなく、植物などへの応用についても考えを深めていく必要があります。みなさまはどのような意見をお持ちでしょうか?よりよい社会を実現していくために、さまざまな状況に置かれているみなさま一人一人のお考えをお聞かせください。

(執筆:橋本紘樹)

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